65歳の日記

「書く仕事」がしたかったけれど、あっさりあきらめた話

ここのところ、せっせとブログを書いている。

仕事中も、記事をどうしようかと考えたりしている。

少し前はYouTubeにあげる曲の事ばかり考えていたから、やっぱり一極集中型で融通がきかない。

とりあえず、絶対9月5日から1カ月は継続すると誓ったので(誰とはなし。自分に)その約束に向かって邁進している。

思い起こすと、私は可愛い子どもではなかったので、特に夢は持っていなかった。

お花屋さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、お寿司屋さんで働きたいとか、そんな類の夢は持ったことがない。

私の育った町に、お花やさんもケーキ屋さんも存在していなかったせいもあるかもしれないが。

看護婦さんとか、保育園の先生とかもなかった。

もちろんお嫁さんもない。

要するに、夢のない子どもだった。

高校生の頃の就活で、私の第一希望は、とにかく家を離れること。

その為の就職だったので、「これ!」という熱いものは何もなかった。

初めてやりたい事を自覚したのは、20歳を過ぎていた。

私のやりたかったことは、「書く仕事」

それは小説とか脚本とかではなく、「記事」

ルポルタージュ記事、新聞の記事。

事実に対して自分の調べたことを言葉に著す。

20歳をすぎて…と書いたが、強烈に思ったのがその頃で、もっと前から「書く仕事」はしたいと思っていたように思う。

国語が好きだったから、文字や文章に対しては親近感が強かった。

ある日、そんな話を当時の職場の休憩室で言ってみたら、新聞社にコネのある人から「聞いてあげようか」という事になった。

いきなりの話だったけど、私はその場で「是非聞いてほしい」とお願いした。

数日後、その返事が来た。

エントリーの資格は、すくなくとも「短大卒業以上」であること。

高卒の私には受験資格がなかった。

この時私は、あっさりと諦めた。

20歳がどれだけの時間をもって、どれだけの可能性を持っているのかという事をまったく考えていなかった。

あきらめたもうひとつの理由に、お金があった。

短大に行くお金がないと思ったのである。

建前上の親はいるが、親はまったく金銭的に期待してはいけなかった。

親の脛をかじれるのなら、高卒ではなく、その時に進学することもできた。

その道があって、進むことができたら私は国語の教師になってみたかった。

転職の可能性を諦めたあの時の選択を、私は後のち、今でも後悔をしている。

世の中には何とかなる扉がたくさんあるのに、それを見ようともしないで、チャレンジもしないで諦めたことが残念だった。

昼に働いて、夜学に行くことだって、いくらでもできたはず。

新聞社だけを考えるのではなく、それ以外でも必要と思うのであれば、やはり挑戦するべきだったと今も思う。

20代で頑張って、30代で夢に向かってもよかった。

40代でも遅くはなかった。

時間と可能性のあった時代に、なぜそれを思わなかったのか。

その時点での「現実」を自分で考えて、無理と思ったのだろう。

あるいは、そこまでしたくはないと思ったのか。

私が考えていたあの頃の現実、世の中は自分が思うほど甘くはない…!

そう思ったはずだけど、今なら教えてあげられる。

オマエが思っている以上に、人や環境はやさしい。

健康な体と志があれば、扉なんていくつもある。

大人のふりして、しのごの言っていないで、飛び込んでみなさい。

世の中はこわいモノがたくさんあるけど、やってみないとわからない事だってたくさんある。

可能性を自分で摘んでしまっては勿体ない。

少なくとも、心が動いたのは確かなのだから。

どんな事でも年齢に関係なく、遅すぎる事はないという。

でも、それは詭弁だ。

遅い、取返しがつかない事がやっぱりある。

そこを見極める必要があるし、「どんな事も遅くはない」というキレイごとを人に言うようなことはしたくない。

でも、遅くないことはそれも、たしかに沢山ある。

むしろ、本当に遅くないってことの方が多い。

私が唯一本当にやってみたかったことはもう出来ない。

時間がない。

けれど、他には遅くないことがたくさんある。

途中で死んでしまっても、やったほうがいいに決まってる。

だから、私は、書くし、弾くし、歌う。これからも。

それにしても、私の文章はくどい。