人生時間

ソフトボールの夏

TOKYO2020がついに幕を明けた。

1年延期になり、感染が心配で中止を願っていたけれど、ついに開幕となりました。

今更言ってもしょうがないので、淡々と過ごすことにします。

ちなみに、私はオリンピックの競技はほとんど見ません(多分)

歳とともに、関心がどんどん薄れて、逆にオリンピックの為に従来のテレビ放送が大幅に変更される事に憤りを感じます(4年ごとにこの憤りを繰り返しています)

この夏、楽しみにしていたゴールデンタイムのドラマがひと月近くもの間お預けになる事を知り、怒りに震えました。

非国民でしょうか(笑)

昔、私はソフトボール少女だった

オリンピックに難癖をつけたくせに、実は早速競技を見てしまった私。

開幕に先駆けて、いくつかの競技はすでに始まっている。

その中で、番組をチェックして、録画もしながら見たのは「ソフトボール」

じっと見ている時間はないので、飛び飛びに見ながらも結果はちゃんと見た。

快勝とサヨナラ勝ちには思わず右腕でガッツポーズをした。

もう、優勝すると思っている。

上野選手には、また金メダルをさげてもらいたいものだ。

そんな上野選手の雄姿を見ながら、私は半世紀ほど前の白球を追う「ソフトボール少女」だった自分を思い出していた。

集まった教室

何の迷いもなく、中学入学と共にソフトボール部に入った。

当時、我校の花形スポーツは野球と陸上と女子バレーボール。

学校の部活動は強制参加ではないので、入るも入らないも自由。

入部の日、希望する部活に割り当てられた教室に、友達と一緒に向かった。

そこには、大人びた3年生と少し離れたところに群れている2年生たちがいて、つい先日まで小学生だった私たちはただの子どもだった。

つい先日までただの子どもだった私たちは、その教室でジッとすることができずに、時折走り回ったりして、上級生の冷ややかな目にさらされた。

なんだか、これから新しい事がはじまるのね…

期待が多い12歳の春だった。

1、2年の記憶

何故だか、このソフトボールの1、2年の記憶はほとんどない。

練習の初めに軽くキャッチボールをしたことと、トスバッティングで「良い球」を待ちすぎて、一向に振らない時に、先輩から「打てや!」ってせかされた程度の記憶しかない。

そんな中で、ひとつだけ、3年生のキャプテン「まきちゃん」のラジオ体操の最後の背伸びの手の動きが、何故がいつも「魚」のヒラヒラした動きを思い出させる。

この時のヒラ~の動きは、今でもラジオ体操をすると思い出す(ラジオ体操は日課です)

それを思い出すとき、私は今でもあの時の体操の円陣の中にいる。

1、2年の試合の記憶もない。

毎年中体連はあるので、参加していたことは確かだろうけど、まったく記憶にはない。

おそらく、戦力には遠く及ばず、バスの席を埋めているだけだったに違いない。

ただし、強いチームだったのか?

それはまったく無かったと思う。

2年生の夏の試合では、もちろん試合には出ていないが、動画のように思いだすシーンがある。

対戦校の攻めの時に、当時の先輩「シモガワラさん」がセンターの守備についていて

打ったフライを受ける時に、「オーライオーライ!」と叫びながら大きく後ろ向きに走り

振り向いたときに、あの大きな球がシモガワラさんの頭に直撃をした。

それを見て、大きく叫んだり、笑ったり。

弱いチームながらの、楽しい思い出だ。

そして私たちの時代

鳴かず飛ばずの1、2年を経て、ついに「私たちの時代」を迎えた。

箸にも棒にも掛からなかった私たちも、立派に格好良く成長していた。

中学の2年間というものは、少女を女子にする。

1、2年生を従え、先輩と呼ばれ、そして試合にも出る。

一気に主役は私たちになった。

この年、私たちのチームは、初めてユニフォームを誂えた。

それまではユニフォームがなくて、指定ジャージもないので各々のジャージがユニフォームだった。

しかし、期待の膨らんだそのユニフォームは「柔道着」と言われた。

柔道着を着てソフトをやる女子。

それが、私たちに与えられた新しい称号となった。

色は生成りで、背中には名前も背番号もない。

動きやすいように、大きくしている。

遠目には柔道着に見えたかもしれない。

けれど、私たちは嬉しかった。

ワクワクした春だった。

強いのか弱いのかさえわからないチーム

私たちの守備は、その日の「持ち回りだった」

なんとなく、苦手なことはしないけれど、それ以外は何でもいいよ!

そんなノリだった気がする。

なので、私もほとんどの守備についた。

何故そんな事をしていたのかは不明である。

それだけ、一生懸命さに欠けていたのかもしれない。

顧問の先生の顔は今でも覚えているけれど、指導を受けた記憶がほとんどない。

ただ、顧問の先生と違う学校の職員のおじさんが時々指導?をしてくれた。

でも、言葉のみで、「ガッツー」の時はこうする! が得意だった。

もちろん、「ゲッツー」の事である。

私たちは頭脳プレイが苦手だった。

こうなると、こうしたら相手の得点を防げる。

そういった事をほとんど考えてこなかった。

少なくとも、私がそうだった。

だから、野球やソフトをよく知っている人からは理解を超えたプレイをしてしまう。

それでも、チームメイトからは苦情も出ない。

そう、私たちは学ばなかったのだ。

それでも、楽しかった。

部活って、楽しむものだよ! それが通じていたのだ。

みんな、夏の主役だった

私は、打つのが得意だった。

走るのも得意だった。

関係があるかどうかわからないけれど、私は異常な握力の持ち主で、左右とも45ほどあった。

そのためか、長打をよく打った。

ホームベースに駆け込む時には、この世の青春を味わったものだ。

そして、守備にはいると、とんだ凡ミスをたくさんする。

ちゃんと考えたら、もう少しなんとかなるのに、考えることは放棄していた。

そして、試合後もたいした反省会もなく、楽しかったことと、悔しかったことを刻んできた。

あの頃、うーんと高みを目指さなくて良かったと思う。

私たちには、丁度よい頑張れる場所になっていた。

今、日本代表の試合を見ながら、こんな私でさえ、自分と重なる気がする。

おこがましいけれど、そんな昔の少女は実はたくさんいるような気がする。

暑い夏がすぎていく。

ガンバレニッポン!