ギター弾き語り

『夕暮れ時はさびしそう』と、私

もう再び結成はされない「NSP」の大ヒット曲「夕暮れ時はさびしそう」

この曲を何度も何度もあげたくて、でもなかなか出来なかったけれど、

やっと、ついにアップする事ができました。

なんのことはない、ストロークでないといけない気がして、弾けなかったのです。

でも、私の変則3フィンガーで弾きました。

わりとうまくいけたかな…(笑) 変則ね…(笑) 1弦をほとんど弾かないという…

それにしても、この詞、キュンとしますね。

『夕暮れ時はさびしそう』弾き語り

・1974年NSP楽曲(天野滋さん作詞・作曲)
・コード:Am
・カポ:2

Ak

コードは4つだけ。
どれも簡単なコードだよ

ストロークでも、基本的な3フィンガーでもいいと思うよ。
ただ、明来は基本的な3フィンガーが出来ないので、少しへんな3フィンガーになっている。 ごめんね、参考にならないと思う(笑)

本家と比べると、少し走り気味で早いテンポになってしまいました。

そのためかどうか、息継ぎがうまくいかなくて、最後の肝心な「ごめんごめん」が尻すぼみで声にならなかった。「ごめんご」になってしまいましたね。ごめんごって、ナニ(笑)

本家本元は間奏にオカリナがはいって、とてもいい味なんだけど、オカリナ吹けないので何も細工はなしにしました。

ただ、ハモリは絶対にあった方が良い曲なので、別録で重ねました。

NSP… ニューサディスティックピンクが正式らしいけど、私は何かでNSPの人たちが言っていた「納豆そら豆ピーナッツ」の解釈が好きです(笑)

残念ながら、お三方のうち、メインボーカルの天野さんとオカリナも吹いていた中村さんは既に亡くなってしまったので、もうお見受けすることは叶いません。

この曲が出た頃、私は(私たち)は15歳の思春期のニキビたちです。

頭の多くを恋が占めていて、夕方から夜にかけては、まさにこの曲のとおりで好きな人のことばかりを考えていました。

そんな思いをこんなキュートな詞にして書いてくれた天野さんに感謝です

私のハナシ 20年後の真実

この曲の頃も含めて、私はよく夕方も夜も外出をしていた。

家にいるのがイヤで、外に避難?をしていたんだけど、その時によく町の消防分署の横の小さな公園を中心にウロウロする事が多かった。

なにせ、小さな田舎なので、友達の家にでも行かないかぎり、行くところもない。

夕方には閉まる共同商店がひとつだけあり、喫茶店や食堂もない。

飲み屋さんは2軒ほどあったけど。

なので、必然的にその公園でブランコを揺らしていたり、そのあたりをチョロチョロと歩いたりして時間をつぶす。

おそらく、その頃、この「夕暮れ時はさびしそう」も歌っていたはず。

なんとなく、少しせつない思いもあるこの頃の事を、私は年数と共に忘れていたんだけれど

35歳頃の小さな同窓会でふいに思い出す出来事があった。

少ない人数の同窓会も終わり、二次会にも参加しないで帰路につくところ、たまたまクラスの違った友人(女性)と地下鉄が一緒になって、少しだけ話しながら帰った時の会話。

友人:あの頃、時々あの公園で話をしたよね。

私:そうだっけ? 

どうやら、たまたま出会って、そのまま公園で話をする機会が何度かあったようだ。

友人はよく覚えているようだったけど、私はまったく記憶にない。

当時、私は結構広く浅く人と関わっていたので、日常的な事はあまり覚えてはいない。

おそらくは、誰と会って話として…という記憶よりも、今晩をどうしよう、いつ帰ろうか。そんな事に意識があったからだと思う。

友人いわく、こんな事は1度だけのことではなかったらしい。

2度なのか、3度なのか…。それはわからないけれど。

それには、覚えていた理由が。

友人:実はね、あの頃、私担任に言われたんだ。お前、公園で○○と話していたんだろって

友人:あいつとは関わるなって、先生に言われたんだ。

○○とは私の事。

もう昔の事とはいえ、初めて聞く話に私はとても驚いた。

当時気にしていなかった、自分の評価をその時に初めて知った。

そして同時に友人の話はウソではないだろうと思った。

友人は、その先生の言うことには、どうやら従わなかったらしい。

そんな命令がおもしろくなかったから…そんなようなことを言っていた。

私はこの話を聞いても、まだ当時の事を思い出すことが出来なかった。

でも、思い出せないだけで、当時先生が話していたのは本当だろうと思った。

その先生は、授業中も面白かったし、親しみもあったように当時は思っていた。

私に対しても、なにも他の生徒と区別をすることもなかった。

ただ、噂では男女交際にある二人に対して、それは自分のクラスの生徒であった時には交際をやめるようにとかの口だしはよくしていたらしい。

何故だかはわからないけれど、良くない道に進むと思っていたのかもしれない。

けれど、大勢の中にあっては、そんな事はおくびにも出さない先生だった。

何故、その友人に私とのほんの少しのお喋りや友人付き合いをやめるようにと言ったのか。

私には心当たりがあった。

それは私がとくに不良だったのではないけれど、私の身内にとんでもない不良がいたから。

もうその時点では学校側からの強制転校であの町にはいなかったけれど、町にいた頃はあらゆる不良のやることを総なめにしていた彼であったから、先生たちにとっては忘れることが出来なかったのだろう。

私がその彼の親族であることは、学校関係の大人の世界では皆が知っていたらしい。

だから、マークされていたのだろうと思う。

私自身にももしかしてマイナス要素があったかもしれないけれど、中学の頃は家庭に問題は抱えていても、自分は普通であると思っていた。

ビックリはしたけど、別にショックではなかった。

あの頃、秘かに流れていた先生の噂自体が本物であったことの方が驚きだった。

人の本心ってわからないものだなぁ…

そんな感想だった。

この20年後に聞いた話。あれ以降たびたび思い出す。

なぜ思い出すのかはわからない。

友人は特別親しくはなかったけれど、そんな注意をされても、態度を変えたりするなく居てくれたことは感謝した。

もし、態度が変わっていたら、理由がわからなくて悩みのタネになっていただろう。

別に、先生から不当と思える評価をされた事はどうでもいい。

実際、私の担任はそんなことはなかったから。

なんだか、楽しいワケでもないこの真実だけど、暗くなっていく公園や街燈は今でも鮮明に思いだす。

私の目からみた風景ではなくて、私の背中から見ているような風景。

だから、十分に過去のことになったのだろう。

この事を書いておきたくて、「夕暮れ時はさびしそう」を歌った。