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難聴の話ではありません。
健康診断では耳の機能に異常はありません。
おそらくは、年齢に応じての事だと思うので、若い人とは比べる機能ではないと思います。
それが証拠に、「モスキート音」は全く聞こえません。
この夏からギターの弾き語りを動画サイトのyoutubeにあげています。
その為に、週に何回か自分のギターと歌を同時に録音しています(当然だけどww)
完璧になりようもないのに、少しでも良いものを…を思い、何度も何度も録りなおします。
途中で間違えたりするので、録音の数は相当数になります。
最後まで録音が出来たものを確認すると、だいたい「え…?」と思います。
自分の音の外しっぷりに唖然とするのです。
意図的に音程を外すのは手法としてあるけれど、私はほとんどそのような上級者のやる事はしません。
楽譜があれば、ほぼ楽譜通りの歌いかたをします。
楽譜の主旋律が一本の線であったら、線にかぶるのが正規の状態であるのに、ところどころ、その線のほんの少し上を声がすべっている。
そのまま上の線で走り続けている。
いつかは戻るのだけれど、それまでは数小節はずしたままになっている。
ギターの音が合っていない時は、リアルにわかっている。
しかし、声がわからない。
発している時に、その外しっぷりをわかっていない。
これが私にとっては「事件」である。
音楽は昔から好きで、ギターを含めて音には慣れ親しんで育った。
そして、高校の時は3年間「吹奏楽」で耳を鍛えられた(そのつもりでいた)
部活で立派なチューナーを買う前は、自力で音を合わせていた。
なかなか正しいチューニングが出来たつもりでいる。
しかし、ある時期に、衰えを感じる前兆があった。
それは、「音叉」が使えなくなったこと。
長年、ギターのチューニングは音叉でやっていた。
5弦をAの音にを合わせていく。
そこを基準に他の弦の音を合わせていく。
弦交換の時にも、最初から音叉を使う。
これが再びギターを弾き始めた50代になって、出来なくなっている事を身を持って知った。
特に弦を交換した直後のAの音を合わせることが出来ない。
すでに弾いている日々のチューニングはまだ出来るけれど。
この時に私は自分の実年齢を意識した。
もう音は拾えないんだな。
この時に感じた少なからずの傷心を、ふたたび感じる日がきたのである。
けれど、何もおそれない。何も後悔はしない。
ふたたびギターを弾き始めた時、すでに私は声がまったく出ない事を知った。
毎日、弾いて歌っていたことは過去なんだ(40年のブランク)
もう、あの日に戻ることはできないだろう。
あの若さを取り戻すことは出来ないのだから。
そう思ってきた。
私の自分の人生の「やりたいことリスト」に老人施設の歌の訪問がある。
そのために、昭和初期ほどの唄も覚えてきた。
しかしまだ、実践は一度も出来ていない。
この声では、まったく歌うことなどできない。
そう思うくらいに、上も下もでない。息継ぎもできない。
それは目標を一気に諦めさせるくらいのものだった。
しかし、ここにきて、私は少しだけ努力をした。
時節柄、ボイストレーニングには行く事ができない。
そして、時機を待つこともできない。
私は若くないからだ。
心を若く保とうと思っても、身体は歳に正直だからあらがえない。
だから、実践をした。
出ない声でも、はずれた音程でも、今やらなければ、明日はもっとダメになるだろう。
声が出ない事もあれば、歯が抜けるかもしれない。
歯が抜けてしまったら、おそらく、本当にやめるだろう。
だから、声が出ないリアル。音をはずすリアル。耳が老いて行くリアル。
そのリアルを追いかけることが出来る「今」
「今のうち」にやりたいことをやっていくと決めている。
老いに勝てると思うのは幻想です。