65歳の日記

母の勉強していた姿

母は、40歳をすぎて運転免許証を取得した。

昭和47年くらいだっただろうか。

本人は、子どもの頃から運動神経が良くて、町のおてんば娘だったと言っていたが、私は自転車に乗っている姿さえ見たことがない。

体型や、緩慢な動きをみても、運動神経や反射神経が良かったなど信じてはいない。

自己申告はやはり眉唾だ。

当時、女性が運転免許証を持っているのは、まだまだ珍しくて(私の町では)車を所有している家庭もほとんどなかった(私の町では)

母自身も、その年齢になってから車を運転する自分など想像した事さえなかっただろう。

そんな母が免許をとって、運転をするには、やむにやまれぬ事情があった。

母は再婚をしていて、再婚相手が(私からは養父)とんでもない「昔のヤンキー」で悪さの履歴がついてまわり、地元の警察にもマークをされていた。

武勇伝?もいくつも持っており、車の運転でも、いけないことをさんざんやらかしていた。

昔は、ほろ酔い程度なら、運転をする人は多かった。

テレビのドラマでも、軽く飲んだあとに運転して帰宅するシーンなどをごく普通のこととして放送していた。実に恐ろしい時代だった。

しかし、養父は、ほどよく飲むという事ができない。

泥酔、酩酊の状態で運転をしていて、その日も町から帰宅するゆるい峠道で単独事故をおこしてしまった。

破損したガードレールに大破をした車は残っていたが、運転をしていた養父は車にいなかった。

地元の人たちが、きっと崖の下におちて、悪ければ死んでいるかもしれないということで、総出で捜してくれたようだが、本人は崖の下にはいなかった。

現地の人達が探してくれている間、なんと血まみれ泥酔の養父はヒッチハイクで家に戻って来た。

当時、我が町自体に電話がひかれていなく、家にも警察にも連絡のしようがなかった。

反省をするどころか、自分以外に悪者がいないはずなのに、謎の激怒。

ダラダラ血を流しながら。

まったく、謎。

そんな事故で、きっと他にも違反や軽微な事故の累積で、養父は免許取り消しの処分を受けた。

ザマミロと思った。

車は納車1週間の新車(バン)で、当然廃車となった。

まったく、車に謝れ!と思う。

そこで、反省をして、謹慎期間が明けるのを待てばいいのに、車のない生活を考えることができない養父は、どうやってなだめて説得をしたのか、母に免許をとらせることになった。

本当にどんな説得をしたのだろうか。実際に見ていないから、想像さえできない。

母の通っていた「教習所」は地元からバスを使っても、片道2時間はかかる場所にあった。

当時、北海道の空知では唯一の教習所だったと思う。

どうやって、通っていたのだろうか…。

そこにせっせと通いながらも、試験は学科も実地も札幌まで出る必要があった。

母の勉強は、そうやって始まった。

過去、高血圧で倒れたことがあって、母は強度の老眼鏡をかける人になっていた。

分厚い眼鏡をかけて、食卓テーブルで教習本をにらんでいた。

見た事のない姿だった。

新聞はマメに読む人だったけど、ペンを持ちながら新聞以外の書物を読んでいる姿を、私は知らない。

勉強って、最後の勉強をした時からのブランクを埋めるためにはリハビリが必要だと思う。

当時はわからなかったけれど、私自身が大人になってから長く勉強から離れていて、新しく何かを学ぶときに、相当にリハビリが必要だった。

ただ、目で追っただけの文字は頭には入らない。脳に残すには訓練が必要だった。

だから、リハビリの時間さえなかった母の勉強は大変だったと思う。

何より好きだったお酒も飲まず、居間でひたすら難しい顔で鉛筆を動かしている姿を、私は時々思い出す。

母親の記憶の1ページとして、深く残っている。

さて。そんな母。

学科も、実地も落ちた。

何度落ちたか、覚えていないけれど、また札幌に行かなければならないと嘆いていた。

そして、嘆く母をよそに、落ちた事を養父は怒っていた。

一体誰のせいで、こんな事になっているのか。

見ている私は無性に腹がたっていた。

ただ、ご心配も同情も不要。

アウトローの母は、黙って怒鳴られてはいない。

それでも、なんとか母も免許証を手にいれる事ができた。

そして、恐ろしいことに、本当に車を運転するようになった。

当時はマニュアル車しかないから、下手な母は、どこでもノッキングや、エンストを起こした。

止まれの合図にもとっさに対応が出来ないから、交通整理のおじさんをはねそうになって、おじさんに緊張を走らせた。

怒鳴る養父。

怒鳴り返す母。

社内は地獄絵だった。

いつもイヤイヤ同乗させられる子どもとして、忍びなかった。

そんな状態なのに、いつしか母は私を乗せて、町に行くようになった。

いつの間にか、あまりエンストも起こさなくなって、それなりのドライバーになっていた。

「買い物行くかい?」って、得意げな事もあった。

当時、気はすすまなかったけれど、今となっては懐かしい。

養父も数年後には免許証をとった。こらしめですんなりとは行かなかった記憶はある。

母がいつまで運転をしたかの記憶はない。

婦人があらためて何かの資格をとるような時代でもなかったから、あんな事がなければ、勉強する母の姿を見る事はなかったと思う。

私はいつも、新しい何かを学習しようと思ったとき、そして、やり始めた時には、必ずあの日々の母の姿を思い出す。

今や、私の方が母より20歳も年上だ。

私も相当に頭が堅くなっている。

一度や二度では覚えることは出来ない。

同じところを何度も見ているのに、既視感さえない。

やっと、記憶に残っても、頭の引き出しのどこに入れたのかが、思い出せなくて悶絶する。

今、私はここ数年で学んで実践してきたことを、もう少し深く、横に広げようと学習(もどき)をしている。

少しリハビリで柔らかくなったのか、悶絶する機会は減っているけれど、飲みこみはやはりどんくさい。

結局、同じことを何度も繰り返す。

鈍行列車の極みだ。

少し自分に呆れて、疲れて、天井を見上げて伸びをしながら、ふと思う。

母よ。貴女はよくやりました。

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