人生時間

終わりのはじまり

さっき、ふと「終わりのはじまり」ってひらめいた。

ひらめいたって程の言葉じゃないし、現に使い古されているような言葉だけど。

2019年から見るためだけのTwitterのアカウントを持っていて、それを活用すべく行動を昨日から始めた。
頭でっかちなので、それ用の本も去年の夏から用意していて、いよいよその本のおでましとなっている。

後悔しないようにやりたい事をやっておく

まずはプロフィールだと思って、数語を埋める。

いざプロフィールって思っても、なかなかこれが重い。
自分をお披露目する事が何も思いつかない。

功罪がなにもない自分に気がつく。

こんな何もない人だったんだぁ… と、思う。

なので、「後悔しないようにやりたい事を全部やっておく」と入れた。

そして、入力してから、「神が降りたことばだ」と、自分で思った。
(いつも大げさな自分酔いで笑う)

明日生きているかわからない

私は、近しい人が早世するケースが多かったので、それも突然バタン!と倒れて、闘病もせずにそのまま亡くなる様子を見てきたので、明日の事はわからないって子どもの頃から思ってきた。

朝まで普通に生活をしていて、夜には人の介助をうけている(亡骸として)様子を目の当たりにしてきたので、人は突然死ぬものと思ってきた。

よく、「倒れた」って言葉を使う人がいる。
私の思う「倒れる」と、人の言う「倒れる」の相違が大きい事が多くて、それは倒れたって言わないだろうって、よく思ってきた。
その多くは「寝た」「座り込んだ」でいい事だと思う。

45歳で車の運転をやめるはずだった

人は自分の親が死んだ年齢を気にする。

私もそうだった。

母が45歳で亡くなったので、自分も45歳がネックだった。
もっと言えば、45歳を待たずに死んでしまう気もしていた。
友人たちにも「早死にするタイプ」だとよく言われた。
(それは無謀な事をするのと、少し変人だったせい)

親の死んだ年齢を意識していたから、私は45歳になったら車を運転するのを止めようと思っていた。
それは、運転中に意識がなくなったら世間様に大迷惑をかけるから。

そう思い続けていたけど、40歳をこえても、44歳になっても、死を感じるほどの不調を実感することがなかった。
これで、死んでしまうなら、それはそれでしょうがないけど、これではきっとしばらくは死なないと確信をもつようになった。

それで、45歳運転卒業をやめた。
今は65歳運転卒業と考えている。

やっておきたい事を捜しておく

やっておきたい事が、少なくて(思いつかなくて)意外に思う。
あまり多くなくて、ラッキーだとも思う。

早いものと高い所が嫌いな私は、アドベンチャーにはまったく興味がない。
ただ、スキューバダイビングはやってみたい。
(あのコスチュームは勇気がいるが…)

そして、やっぱり音楽には触れていきたい。
音の鳴るもの、とりあえず触って、出来れば奏でてみたい。

そして、何より。
人の声を聞きたい(人見知りなので会話をしたいわけではない)
人の持つ、世界にたったひとつの楽器に興味がある。

終わりのために、新しい扉を開けてみる(Twitterだけど)
たったこれだけのことに、御託並べて、つべこべ言っている。
この性格はやっぱり生涯不変のようだ。