65歳の日記

『海に眠るダイヤモンド』を見て

TBSの日曜劇場で「海に眠るダイヤモンド」というドラマをやっているけれど、このドラマの存在を知ったのは、12月に入ってからだった。

とても悔やむ…。

ネットで、最後まで見たい秋ドラマの1位になっていたので、その存在を知った。

知っていたら、ちゃんと録画をしておいたのに…。

それからティーバーで見ているが、途中がすっぽりと抜けてしまっている。

いつか、きっと見ることが出来るとは思っている…というか、期待している。

以前から「軍艦島」に興味があって、よく写真やグーグルマップで眺めていたけれど、頭でわかっていても、そこに炭鉱の生活を結びつけるのは難しかった。

どうしても、狭い島の中での生活に関心がいってしまって、島の一番大事な「生業」についてはあまり考えてこなかった。

私自身が、炭鉱の子どもだというのに。

北海道には多くの炭鉱があって、私もその町の中で育った。

炭鉱マンの転職は、炭鉱から炭鉱だから、場所はかわるけれど、「炭鉱の子ども」であることは変わりがなかった。

私の家も、炭鉱の「流れ者」だった。

きっと、待遇の差を求めて、流れていたのだろう。

炭鉱のマチは、一部の商店や公務員などをのぞいて、ほとんどが炭鉱関係になる。

小、中学校では、クラスの95%は親が炭鉱マンの子どもだ。

だから、職業の差別など存在しないし、おおらかだったように思う。

炭鉱の会社の中での上下はあるから、住んでいる地域が違っていたり、家にお風呂があったりがステータスの違いだった。

それでも、子どもには上下は存在していなかった。

高校に入ってからは、広く人が集まるので、炭鉱以外の友だちも出来たけれど、友人には炭鉱の生活は奇異に映っていたようだ。

私たちは集合風呂だったので(お金は払わないから銭湯ではないけれど、形式は一緒)会話の中に「風呂」がよく出るけれど、それが都会?の友人たちには奇異に聞こえたようだ。

あんた達の話の初めはいつも風呂だ…

そう言われたのが半世紀たっても耳に残っている。

「海に眠るダイヤモンド」を見て、炭鉱の仕事の厳しさを改めて思う。

改めて…は違うかも。

しっかりとは考えてこなかったのかもしれない。

命がけだったんだな。

妻子を養うために、毎日命をかけて働いていたんだ。

酒呑みの「飲んだくれ」が多くて、ガラも悪くて、輩オヤジが多いと思っていたから(私の親が筆頭)地底深くで命をかけていたとは考えることがなかった。

今は、思いが足りなかったことを申し訳なく思っている。

気温が40度とか、湿度が90%なんて想像もしていなかった。

「また呑んでるよ…」としか思っていなかった。

私のいたマチでも、死者25名の大きな炭鉱事故があった。

高校3年生の頃。

身近に被害を受けた人はいなかったけれど、マチは大きく揺れた。

それでも、私は深く想像する事が出来ずにいた。

命をかけるという事を、リアルに感じることができなかったのだろう。

それを、「海に眠るダイヤモンド」は今になって教えてくれた。

逃げ場のない所で、命をはって仕事をすることがどれだけの重さだったのか。

そんな思いをいつも背中にはりつけながら、毎日トロッコに乗っていたのか。

私は父親がすごく嫌いで、その思いは今でも変わらない。

けれど、嫌いでも、感謝だけはするべきだったと、今は思うようになった。

心にしまいこんでいた思いを、ドラマはたくさん引き出してくれた。

閉山をしてから、マチには人がほとんどいなくなっている。

それでも、住宅の一部は残っていて、人も生活をしている。

そんな所に12年くらい前に行ってきた。

一緒に行った友人が、「立坑」を見たいと言った。

奥地にあった立坑めがけて車を走らせたけれど、立坑は出てこなかった。

たまたまいた人に友人が立坑の事を尋ねると、数年前に取り壊したと教えてくれた。

友人は、その数年前に、自分の両親をつれて立坑を見たのだという。

だから、今でも残っていると思っていたから、残念だと言った。

私も、立坑を見たかった。

最後に見ておきたかった。

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