65歳の日記

たった一度の悔し泣き

どこかの知事さんが、パワハラ疑惑で瀬戸際にいるようだ。

総スカンの中、一人ぼっちで食事をして、悔し涙を流されているというネットのウワサ…

事実かどうかわからないし、あまり関心もない。

なにせ、遠い。

しかし、立場の高い人はそれなりの人格者であってほしい。

悔し涙。

流したことのある人の方が、無い人より多いような気がしている。

何回も流しているかもしれない。

私は、人生でたった一度だが、ある。

悔しいことは何度もあったし、屈辱だってある。

でも、完全に悔し涙だと自覚をしていることは1度しかない。

だから、忘れない。

昭和から平成にかわる頃。

私は小さな有限会社の事務員だった。

勤務は、5年目くらいだっと思う。

なかなか仕事が見つからなくて、たまたま見つけた貼り紙を頼りに、半ば強引に雇ってもらった。

だからというワケではないけれど、そこで私はとにかく一生懸命に働いた。

若い人はモノを覚えないし、すぐに辞めたり休んだりするから採用したくないという社長をなんとか説き伏せて、雇ってもらった。

感謝感謝、大感謝で、それは懸命に働いた。

初めての業界で、特殊機械のメーカー(の、子会社)だったので、製品や部品を覚えるのがとても大変だった。

でも、機械ものが子ども時代から好きだったので、大変だったけれど、覚えることの喜びもあった。

いつかしら、信用も信頼もされている感触をもてるようにもなった。

そんな時分、人の紹介で男性が技術兼営業で入社した。

私より一つ歳が下だった。

彼も、この業界は初めてだったけれど、真面目に働く人だった。

ここの社長は、採用の時に具体的な給与の話はしない。

それでも、そんな緩いことが何となく許される会社のような、社長の性格のような。

そんな感じで、新入りの彼も初めてのお給料日を迎えた。

この会社は実に薄給だった。

もっと言えば、社長とご子息の給料はそれなりに高額だったし、それを良しとしていて、事務を預かっていた私は内情も知っていたが、私が知ることを気にする人でもなかった。

当時、まだ社会保険も未加入だったから、薄給がより薄い状態だった(のちに加入)

それでも、社長自身が食道楽で、よくお高めな食事に行くのを同行させていただいていたので、それで帳尻があっていると思っていたのかもしれない。

本当にこの時代、ずいぶん分不相応なお食事を頻繁にさせていただいた(経費…笑)

そうしてお給料日の朝。

社長から渡されたメモを見て、私は愕然とした。

これまで粉骨砕身働いてきた5~6年目の私より、新入りの彼の給料は高かった。

一目でわかるくらいの差があった。

恐らく、私の顔色が変わったのが見てとれたのだろう。

社長は言った。

「営業の男の給料を女より安くするわけにはいかないんだ」

「すまんけど、これでやってくれ」

これでやってくれと言われた以上は、ごたごた言ってもしょうがない。

言われたとおりに、それでやった。

社長には雇ってもらった恩義があるから、私は何も言わなかった。

生まれて、初めて悔しくて涙がでた。

悔し涙が止まらないということを初めて経験した。

そこそこ似たようなことは、その後の人生でもあったかもしれないが、もう覚えていないし、ここまでの思いはしたことがない。

それだけ、この職場で一生懸命に働いていた自負があった。

ここで自分以上に頑張っている人はいないと思っていた(思い上がりかもしれないが)

5年懸命に働いたのに、まだ何もしらない人に金額で明確に差をつけられたことが悔しくてしょうがなかった。

この当時、転職の話もいただいていたから、思い切ることもできたけれど、私はしなかった。

新しい環境が怖いというのもあったし、それよりも、やはり社長には返せないほどの恩を感じていたから、軽々な判断はしないようにした。

結果、私はその環境に35年在籍をした。

途中、親会社に吸収されて、立場も給与も大きく変わった。

いかに自分が劣悪な金銭環境にいたのかを、後半思い知った。

社長は、私の悔し涙は知らないかもしれない。

あるいは知っていたかもしれないが。

飲み込んで、今までと同じように働くことを私は選んだ。

古い人間なので、会社のために滅私奉公をするような年代だ。

不貞腐れて、手を抜くという選択肢はなかった。

悔し泣きというと、この件を思い出す。

要するに、頑張っていた自分のプライドの問題だったのだと思う。

悔し泣きなんて、もう二度と流さないだろうと思う。

それほどの情熱がもうないから。

もう、35年くらいも前のことだけど、絶対に忘れることはない。