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私自身は、ごくごく平凡な日本国民レベルの宗教観である。
どっぷり浸かる訳でもなく、かと言ってないがしろにもしていない。
法事では宗派を持っているけど、なんでも良いと思っている派である。
不思議な事はあってもなくても…。
信じるか信じないかも、その時の気持ち次第。
決して盲信もしないし、かと言って否定もしない。
信じたことは信じ切る危険な体質でもある。
感銘を受けた「命の話」
生命、輪廻転生の話を含むので、違和感のある方は読まないでください。
つい先日、youtubeで「食肉」になる家畜の話を聞きました。
食べるくせに、実情を知るのが苦手な卑怯者である私も、そのある種ソフトな話に聞き入りました。
食肉の前に、まず、犬や猫。
犬や猫は、人間の生活に近くて、今はペットとしての存在が大きい。
これは、いつか人間として生まれてくる準備段階であるらしい。
人間に近く存在して、人間を学び、何度かの輪廻転生を繰り返して
彼らの憧れのゴールである「人間」に生まれてくる。
そして、今の自分の「立場」修行としての「立ち位置」を理解しているらしい。
食肉となる動物。
ジビエではなくて、管理されている動物が対象だと思うけれど。
食肉動物は可哀想だ。
食肉動物に生まれなくて良かった。
これはずっと思ってきたし、そう思う人がほとんだと思う。
感情を持っている命を、逃げる術も持たない状態で絶つなんて
自分がそこに生まれなくて、本当に良かったと思ってしまう。
しかし、彼らは自分の「生まれた理由」をわかって現世に来ているという。
命を捧げて、それが彼らの修行で、その修行を何度か繰り返して、その後に人間の近くの生命として輪廻転生してくる。
つまり、彼らの次の目標は「犬や猫」など。
そうやって、段階を踏んで命のピラミッドの上に近づこうとしている。
豚や牛から、いきなり人間になることはないそうだ。
私たち人間も、何度も生死を繰り返して「人間」に生まれてきているという。
私たちも、食べられる存在の時代があったという。
捧げてくれた命への礼儀
だから、命を捧げた動物への礼儀として、捨てずに食べましょうという事。
わかっていながら、命を捧げたのに、食べてももらえず、捨てられる動物の気持ちになりましょう。
つい、買いすぎて、冷凍にもせず、捨てた記憶が過去にたくさんあった私は、
申し訳なくて、いい歳をしながら今更涙が出る。
年々、食品ロスを意識するようになったので、今ではあらゆる食材で、消費しなくて処分をするという事はなくなっている。
自ら手に入れたものは、ちゃんと食べるようになっている。
でも、過去を思うと、申し訳ない。
ちゃんと食べて栄養にしてね。
その為に、私たちの命を捧げたんだから。
そう言っているんだろうな。
感謝は薄くなってしまう。
私は「いただきます」と「ごちそうさまでした」は言うけれど
あまり心をこめてはいなかった。
あの日、動画を見てからは、ちゃんと死んで与えてくれた、この目の前の食材に感謝を持つようになった。
時々、すごく偶然に見たもの、聞いたもので、感銘を受ける事がある。
しかし、これはおそらく、偶然ではなくて、自分の欠けているものを教えてくれているのだろう。
何度も何度も、教えなおしくてくれる「その何か」に、感謝している。
イベントの後の食材の廃棄に、いつから日本はこんな民族になったのだろうかと思う。
食べる苦労を知らないって、恐ろしいことだと思う。
そして、私も、その民族の一部になっていた。
まだ貧しい時代に生まれてきた私は、原点回帰である。
愛玩動物の安楽死
そして、もうひとつ、ハッとした事がある。
ペット動物の安楽死。
これは、絶対にしてはいけないという。
病気になった我が子(ペット)を見るに見かねて安楽死を選ぶ飼い主がいる。
しかし、その権利は誰にもないそうだ。
人間と同じで、ペットも天寿を全うして次にいかなければいけない。
そうしなければ、その大事なペットの輪廻転生を邪魔するという。
私も過去に飼っていた犬の病気を見かねて、安楽死を考えた事がある。
結局、家族にも病院にも反対されて、ちゃんと数日後に自宅で看取った経緯がある。
今では、命の終わりを自然に迎えさせて良かったと、つくづく思う。
すべては奇跡の中で繰り返している。
私に出来るのは、感謝して生きることだ。