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僭越でした。
難しくて、奥深くて、私はまだまだ若造だなと思いました(笑)
もとい…! 若造ではありません(笑)
・ 1978年 谷村新司 作詞・作曲
・ 歌唱:山口百恵
・ 国鉄の旅行キャンペーンソング
・ コード Dm
・ カポ 2
弾きなれるまではストロークで練習しても、最終的にはアルペジオがいいよ。
コードが多くて、中にはなじみのないコードもあるけれど、難しければ簡略すればいいと思うよ。
Em7-5なら、1~3弦の部分だけ押さえて、その3弦のみの音をならすとか
Gmならアルペジオの場合3フレットをまるまる押さえて、5フレットは押さえない。弾くときは6弦と下の方だけにするとか。
やりながら、自分流にアレンジしてみたらいいよ。
もちろん、正確にできるのがベターだけどね!
この歌はすごく難しい。
きっと、いつまでも、歌いこなせることはないな。私の場合。
弱冠20歳の百恵さんの歌唱力には本当に脱帽です。
スタァ誕生
伝説のオーディション番組「スター誕生」をもじっていますが、少し違います。
「スタァ」
ただのスターではなく、スターに小さな星をちりばめているのが私の思う「スタァ」
まさに、百恵さんは私の「スタァ」でした。
スター誕生に挑戦していた頃から注目していました。
決戦大会でも、きっと勝ち抜くと信じていました。
そして、そのとおりに百恵さんはスターの道に入っていきました。
百恵さんのデビュー曲は「としごろ」
今でも、イントロからソラで歌う事ができます。
そう。私はデビュー当時、いやそれよりも早くから百恵さんのファンでした。
三人娘(山口百恵・桜田淳子・森昌子)の中でのスタートはわり地味だった気がします。
桜田淳子ちゃんが目立っていたからのような気もしますが。
歌唱力の「森昌子」
可愛さの「桜田淳子」
…… 「山口百恵」
ほんのデビューの時は、特別な光は薄かった気がします(それでも私はすでにファンだった)
最初の頃は、「中学生に歌わせるのはどうなのか…?!」と社会問題を引き起こするくらいに性的な過激な歌を歌う事が多かった百恵ちゃん。
自分をしっかり持っている人なので、その曲で芸能界で生きていく事を理解していたのだと思います。
百恵ちゃんが芸能界に入ったのは、まさに生活するため、お母さんと妹さんの為だったからです。
そんな百恵ちゃんは、しかし、すぐにそこを脱却していきました。
子どもらしく、ただ歌っていたのが、驚く速さで歌唱力をつけていきました。
子どもなりの芸能界での苦労や、恋愛で新しい才能が開花したのでしょうか。
もちろん、勉強もトレーニングもしたことでしょう。
そして、百恵ちゃんは20歳を迎えるころには、押しも押されぬ「スタァ」になっていったのです。
どんどんきれいになって、歌も上手くなる百恵ちゃんは、「スター」ではなくなってしまった。
あまりにも、短時間で遠くに行ってしまって、私はその当時から百恵ちゃんから距離を置くようになった。
いつも開けては見ていた「宝箱」をもう一つの宝箱に隠すように、あまり開けることはなくなりました。
なんだか、もったいなくて、いつも気軽に見るのも聴くのも遠慮するようになりました。
それは、引退してからの今も、ほぼ同じ気持ちです。
まったく余談ですが、〇翼の人(いつも街宣車に乗っている人たち)は、いつも崇拝している皇室の方々の車や、お姿を見る機会があると、必ず下を向き、絶対に目を向けないそうです。
それは、畏れ多いのと、もったいないという気持ちからなんだそうです。
なんだか、その気持ちに少し似ているような気がしています。
当時の百恵ちゃんには迷惑な事でしょう。
距離などおかずにレコードを買って!って話です。(買ってますよ、もちろん)
そんな感じで、「スタァ百恵さん」から距離をおいて数十年。
お互いに60を超えて、それぞれの人生を生きています。
百恵ちゃんと私の縁
引退されて、家庭をもち、二人の息子さんもそれぞれ自立して、ご主人は今や日本を代表するほどの俳優になって、穏やかに幸せにお暮しの百恵さん(時々「ちゃん」と「さん」にわかれます)
実は、私は何度か百恵さんからお手紙をいただいた事があります。
そして、ご夫婦とも、友人としてお付き合いをしていただいています。
はい。すみません。妄想ではなくて、夢です(就寝中の夢)
ご夫婦とのお付き合いの夢は1度だけですが、手紙は3通くらいいただいています(笑)
やはり、私は今でも根強いファンなのでしょう。
思ったことや、夢が実現する事がわりとあるほうなので、いつか百恵ちゃんと何かしらのご縁があるかもしれない…
そんな夢の続きが、あるのか、ないのか…ww