65歳の日記

大好きな「高田明」さんのこと。

国民の8割は知っているだろう、「ジャパネットたかた」の創業者、「高田明」さんである。

今日、ネットのニュースに「高田明」さんの事が載っていた(以下、高田さんとします)

久しぶりの高田さんを見て、好きすぎることを再認する

高田さんの地元、長崎県の複合施設「長崎スタジアムシティ」が開業し、そこのサッカースタジアム(ピーススタジアム)でオープニングセレモニーが行われたらしい。

施設のプロジェクトは現在の「ジャパネットホールディングス」の「高田旭人」氏(代表取締役社長兼CEO)が指揮をされ、創業者として高田さんも来場し、テープカットをされたようだ。

高田さんが引退後に、長崎のJリーグチームのオーナーになったことは知っていたけれど、複合施設に携わっているなどとは、知らなかった。

もっとも、現在のリーダーは息子さんの「旭人」氏である。

高田さんが社長を引退されてから、もう10年になるらしい。

そんなに時間がすぎた感じはしないけれど、これが出演最後という通販の番組、私は泣きたいほどの気持ちで見ていた。

番組を進行していたパーソナリティの女性も泣いていたし、それを見て高田さんは、

「嬉しいなぁ。可愛いなぁ」と言っておられた。

本当に高田さんの社員に対する愛情の深さに、胸が熱くなる。

最後の出演ということで、スタジオには現在の社長である旭人氏も駆けつけ、スタッフと一緒に見守っていた。

「父の最後の出演ですから」と言って、ここは親子としてか! と、またホロっとする。

でも、最後とはいいながら、その後も時々は番組に出られることもあった。

商品の使用者としての意見を言っていたり、ほんの少しの出演である。

そんな場面に当たると、本当に嬉しかった。

高田さんを認識したのは、25年くらい前だろうか。

テレビはそれほど多くなくて、主体はまだラジオだった。

だから、どちらが先かは覚えていない。

北海道のHBCラジオで、ほぼ毎日「ジャパネットたかた」のコーナーがあった。

5分くらいだったと思う。

ここで、高田さんの特徴的な甲高い声がいつも響いていた。

私の印象も、「声の高い人だな」くらいな感じ。

当時、よくカメラとパソコンとカラオケを宣伝していた印象がある。

カラオケの時は、高田さんの十八番である「高校3年生」を熱唱されていた。

私は高田さんの大ファンだと公言している。

もう20年以上前から。

ただ、何がきっかけなのかは覚えていない。

きっと、高田さんの「誠実さ」に惹かれたのだと思う。

何を見ても、どんなシーンを見てもどんどん好きになっていった。

今でいう「推し」なのだと思う。

無条件で好き。

高田さんが、社員をとても大切に思っているのがテレビを見てもわかる。

ジャパネットには「ジャパネット子供会」なるものがあって、そういう組織が存在する事自体、社員の家族にまで愛情を持っている。

高田さんの根幹が誠実で愛情深い人なのだと思う。

不祥事があった時にも、真正面から取り組んで、潔かった

必ず浮上してくれると信じて、ひたすら待ったものだ。

売上が過去一番にならなければ、引退をすると公言したこともある(無事達成)

高田さんの発する、どんな発言も見逃さなかった。

高田さんは、長崎県平戸市という島のご出身らしい。

大学卒業後、商社に就職され、海外勤務のあとにご実家のカメラ店に入社され、それを機に家業の繁栄に奔走された。

寝る間も惜しんで、ホテルと協業して宿泊客の宴会写真を撮り、帰社後に印刷をし翌朝の朝食時に写真のオーダーを取った。

奥様もよく働く人だそうだ。

そうして、地元発信のラジオからはじまり、やがてラジオからテレビに主戦場は変わっていく。

でも、高田さんは、自分はテレビの人ではなく、ラジオの人だと仰る。

仕事に邁進しながら、三人のお子様を育て、会社も勢いをもって成長させていった。

二人で頑張った小さなカメラ店が、今や日本を代表する通販の雄として存在をしている。

偉人としても見事だけれど、まだご存命であるし、何より人としての魅力にあふれている。

普段の高田さんは、低く小さな声でお話になるが、放送となるとあの頭から抜けるようなハイトーンになる。

ボルテージがあがるのか、策略なのかはわからない。

しかし、私たちはそれに引き込まれる。

うるさい、と思う人もいる。

私はいつも、本調子を見届けるような気持ちになる。

高田さんからいただいた「お礼状」

実は、高田さんファンのこの私。

一度だけ高田さんに、お手紙を書いた(ほぼファンレター)

夜中に思いが溢れて、書いて、そのまま投函をしたような事ではない(笑)

地元の「北海道新聞」に高田さんの記事が載っていたから、それをコピーして長崎の本社に送った。

B5くらいのサイズだろうか。

ご自分の机から、社員の方に話しかけ、笑っている写真が使われていた。

記事の内容は覚えていないが、今、私が知っているような内容だったと思う。

これは高田さんに送らなくては…!と、ファンとして思った。

今思えば、取材を受けているのだから、新聞の発行前には記事を見ていただろうと思う。

そんな事さえ気づかずに、私はコピーに手紙を添えて送った。

送って、満足して、そして送ったことを忘れた。

少したってから、封書が届いた。

明らかに公の機関から届いたものではない風情。普通の封筒である。

長崎県の「高田明」さんという方からの封書である。

え? え? と思い、もうコピーを送ったことも薄い記憶になっていたから(それだけ熱量をもって送ったから消化していた)どうして?という答えまで数秒かかった。

内容は、コピー送付のお礼と、近年の家族旅行は北海道であったこと。

テレビの出演が目をひくけれど、自分の主体はラジオであると思っていることが書かれていた。

その手紙を、私は多分、目が星になったような、中学生のようなキラキラ気分で読んだ。

大好きな、憧れの人からの手紙。

この手紙は、今でも宝物として、タンスにしまってある。

人として、父として。

人としては、申し分がない。

暖かく、潔く、深く…  遠い人なので、欠点を知るすべもない。

父親としてはどうだろう。

息子さんも、娘さんも表にたっている人である。

息子さんが会社を継ぐ時に高田さんは言っておられた。

息子だから継ぐのではなく、彼が優秀だからです。

もちろん、息子だからの側面は大きかっただろうけれど、優秀だったからというのは、今や答えが出ている。

お嬢様も、サッカー関係の理事として活躍されている。

子どもたちは、父として高田さんをどう見ていただろう。

息子さんは、「たかた」の名前を利用したくないから、名だたる日本のメーカー等に照準をあてずに、証券会社に入社。そこで経験を積まれた。

数年後、ジャパネットたかたに入社。

お嬢様は、父が高田明であることを知られるのはイヤだったと、何かで読んだことがある。

人それぞれ、家庭の顔や事情がある。

自分の力で生きていきたいと思っても、自分の足元や、背後がイヤでも人生にインパクトをあたえ、環境を変えることがある。

持っている者の悩みだろうとは思うけれど、結局は高田さんのお子様であるが、高田さんがされてきたように、色いろな岐路で正しく力をつけて歩まれている印象がある。

でも、私からみたら、なんと贅沢な…! との思いがある。

高田さんが父であるだけで、どれだけの幸運を持っているか。

隣の芝生は青いかもしれないが、羨ましく思う。

これからの高田さんと、私の夢

潔くジャパネットから身を引いて、地元サッカーの繁栄に尽力されてきた。

もう、私の持っている「高田情報」は古いのかもしれないが、土俵をかえてもバイタリティーをもって活躍されている。

高田さん、もうじき76歳になられる。

およそ、70代後半の人の活躍量とは思えない。

きっと、頭の中では「次のこと」で燃えているだろうと思う。

が…

あまりに潔くジャパネットからひかれたように、もうすっぱりと全てを辞める…という選択をされるかもしれない。

奥様と静かにゆっくりした晩年を歩まれるかもしれない。

いずれにしても、私も記憶の働くかぎり、気持ちの動くかぎり、高田さんを注目したい。

そして、いつか、ジャパネットクルーズに乗りたい。

ジャパネットを、たっぷりと味わって、ブログ記事に上げたい。

高田さんに届くような記事に仕上げたい。

それが私の夢のひとつだ。

奥様と、たった二人で寝ずに働いて、やがて5人になり、50人になり、数百人となり…

人にはわからないご苦労も沢山されたと思うけれど、ただただ素晴らしい。

高田さんの仕事を近くで見てみたかった。

高田さんから商売の話を聞いてみたかった。

高田さんの視界に入ってみたかった。

高田さんを中心にした、私の気持ちはまだまだ続く。

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